2010年 05月 14日
フィリップ・クリルスキー著 「利他主義のとき」 から (I) |
正月に紹介したクリルスキーさんの 「利他主義のとき」 の内容をこれから少しずつ紹介したい。今回はアマルティア・センによる序を読んでみたい。
センさんの主張の底を流れているのは、エピステモロジーとエティックの対比だろうか。認識論、あるいは知識論と訳されるものと倫理との対比になるが、科学と哲学との対比と置換できるだろう。この点は私も考えていることなので、興味深く読んだ。彼は次のようなことを言っている。
この本は、世界の対象を理解する時に見られる限界が方法、省察の不足、注意の欠落に由来することを示している。この障害を乗り越えるためには専心と決意が求められる。科学知は解析の厳密さとコンセンサスの追求に依るところが大であるが、われわれを取り巻く社会や世界の理解には双方向のアンガジュマンが求められる。この態度が世界を悲惨から救うために必要になる。
クリルスキー氏は、科学知と日常の事物の理解の関係を日常の事物として科学の対象を捉えるように主張し、社会的、政治的、経済的コンテクストに入れて考えていることの重要性を説いている。そのためには科学者が自らの守られた場所から出なければならない。これを読みながら、マンハッタン計画の主導者であったロバート・オッペンハイマーの次の言葉を思い出していた。
「技術的に魅力的なことに出会った時、前に進み、それを実現する。
それで何ができるのかは技術が達成された時に議論するのだ」
後に彼はこの態度を悔いることになる。事後 (ex post) の論理は科学の特徴である予測や全的な評価には劣るのである。
クリルスキー氏は、責任という考えが世界を正確でより広い視点から理解することと如何に深く結び付いているのかを示す。しかし、この考え方はエピステモロジーとエティックを厳密に分けることを主張する人には受け入れられない。クリルスキー氏の言う 「エティックの動員」 は、単なる知の探求とは一線を画するもので、世界のより良い理解には倫理の視点に必然的に依存することを明確に示している。その上で、現実の理解から責任の認識、そして利他主義の必要性へと進んでいく。
ほとんどの人は世界の悲惨な状況を示す統計に触れても何もなかったように平穏な生活を続けている。世界が改善されないことを無知には押しつけられない。知りながら立ち上がろうとしないわれわれの状況をクリルスキー氏は分析している。ここで重要になるのが、上に述べたエピステモロロジーとエティックの関係になる。世界を観察することと現実を理解することは別物である。これはT・S・エリオットが "Burnt Norton" と題した詩の中で次のように指摘した古い問題になる。
「人間というものは、過剰な現実には耐えられないものだ」
クリルスキー氏はこの運命論的視点から距離を取る。現実の理解とわれわれの行動と生活の倫理を推し進める道を示している。そこでは科学が貢献できることがあると同時に、分断された今の科学が得るものも大きいだろう。この本は、エピステモロジーという広大な領域とエティックの底辺を流れる規範を理解し、評価するための格好の材料を提供している。
by paul-IP
| 2010-05-14 11:19